
「訴えますよ、それ」
物流倉庫を経営するIさんの元に、ある社員の名前が挙がるたびに、現場の空気が重くなっていた。
Hさんは、納期の遅れ、伝票の記入ミス、無断での持ち場離脱――問題は積み重なっていた。
しかし、現場責任者が一言でも注意しようとすると、Hさんは決まってこう返した。
「それ、パワハラですよね」
「労基署に相談してもいいんですよ」
「不当な扱いをしたら、訴えます」
現場責任者は、その度に口をつぐんだ。法律の知識に自信がなかったからだ。
もし本当に訴えられたら。
もし本当に違法な指導をしてしまっていたら。
分からないという恐怖は、行動を止めるには十分すぎた。
やがて誰もHさんに注意をしなくなった。当然、Hさんの態度は変わらない。むしろ「何を言っても大丈夫だ」と、態度はさらに大きくなっていった。
真面目に働く周囲の社員たちは、その様子を黙って見ていた。ある古参の社員が、退職の意思をIさんに告げた日、その理由は一言だった。
「頑張っても、サボっても、同じなんですね、この会社」
Iさんは、ようやく現実に気づいた。恐れていたのは「法律」そのものではなく、「法律を知らない自分」だったということに。
その後、会社では対応の手順を見直しました。
まずは口頭での注意。
改善が見られなければ、書面による指導。
必要に応じて改善計画を作成し、その経過を記録する。
感情ではなく、事実と手順に基づいて対応する。
そのルールを徹底したことで、現場には少しずつ公平性が戻っていきました。
もちろん、相手から法律を持ち出される場面もあります。
しかし、その場で法律論を戦わせる必要はありません。
「内容を確認した上で、あらためてお伝えします。」
そう伝え、一度持ち帰って専門家に相談することも、経営者にとって大切な判断です。
法律は、経営者を縛るためにあるものではありません。
正しい手順で人を守り、会社を守るためにあります。
多くの経営者を止めているのは、法律そのものではなく、「知らないことへの恐れ」です。
だからこそ、迷ったときこそ一人で抱え込まず、正しい知識を持つ専門家と一緒に進めることが、結果として会社を守る最も確実な方法なのです。
