与えるだけでは人は救えない

「利他の心は大切だ」と、よく言われます。

しかし現実を見ると、「そんなのは綺麗ごとだ」と言いたくなる場面が少なくありません。

例えば

困った時だけ助けを求め、

救われた瞬間に感謝を忘れ、

また同じ生き方へ戻っていく人に出会ったとき。

あるいは、

全力で守り続けた子供ほど、

いつまでも自分の足で立てなくなってしまう姿を知ったとき。

そうした現実を見て、

「利他は人を甘やかすだけだ」

「優しさは無意味だ」

「結局、搾取されるだけだ」

と結論づける人もいます。

しかし、その考えは本質を見誤っています。

誤解を恐れずに言えば、

利他とは単なる綺麗事でも、自己犠牲でもありません。

むしろ非常に合理的な生き方なのです。

なぜなら、

「他者を幸せにすること」が、

結果として自分自身を最も長期的に幸せにする方法だからです。

例えば、

先に与える人には、

信頼や縁、人の支えが巡り巡って返ってきます。

一方、

自分の利益だけを優先する人は、

短期的には得をしても、長期的には信頼を失い、

本当に苦しい時に支えてくれる人を失っていきます。

つまり、

利他とは、“究極に賢い「利己」”と言えるのです。

ではなぜ、利他の心で生きていると、

「優しさは報われない」と感じることが多いのでしょうか?

それは、本当の意味で「利他とは何か」を理解できていないからです。

実際のところ、優しさには、大きく二つの形があります。

A)「相手が今欲しがっているもの」をそのまま与えること

B)あえて「相手が今欲しがっているもの」を与えないこと

実は、多くの場合において、

相手が今欲しいものをそのまま与えることは、

「与える側」も「受け取る側」も、長期的には不幸にしてしまいます。

しかし、あえてそれを与えないという選択をした時、

本来の意味での好循環が始まることが多いです。

例えば、相手を苦しませたくないという善意から

先回りして、「本来であれば本人が向き合うべき結果」を

奪ったケース。

◎つらい体験をさせないように、先回りして問題を解決してあげる。

◎失敗の責任を肩代わりする。

◎本人の代わりに謝罪する。

このやり方であれば、

相手は「目の前の痛み」は体験しないで済みます。

しかし、長期的に見ると、

ここで向き合わなかった課題は、

結局、形を変えながら繰り返されることになります。

簡単に言うと、

本来体験を通してその人の中で育つはずだった

◎判断力

◎責任感

◎自制心

◎問題解決能力

◎他者への想像力

が、芽吹かないまま終わってしまう。

その結果

• 自分で決められない

• 失敗に耐えられない

• 注意されると崩れる

• 不快感に弱い

• 他責思考になる

ということになり、

救ったはずの相手の人生は、なお一層苦しみに満ちていくのです。

苦しませたくないのに

逆に苦しませる結果になるのですから、これでは「やぶ蛇」です。

つまり、

なぜ、あえて「相手が欲しがっているもの」を与えないのかというと、

自ら選んだ行動の結果を、自分自身で体験してもらい、

その痛みの意味を自分で考えてもらうためです。

人には

痛みの中でしか開かれない扉、

喪失という暗闇の中でしか見えない景色がある。

だから、

心を鬼にして、今「痛み」を体感してもらう。

厳しく聞こえるかもしれませんが、

「本当の利他」とは

時に「相手が打ちひしがれる姿」を、

静かに距離を保ちながら見守ることではないかと思います。

※ここでいう「見守る」とは、

「相手の人生を代わりに背負うこと(相手の課題を奪うこと)」でも、

「放置」でもありません。

「自分自身の足で立てるよう支えること」です。

例えば次のような支援が大切です。

◎話を聞く

◎安全を確保する

◎孤立させない

◎必要な情報は渡す

◎共感する など

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