
例えば薬害。
今の時代、下手したら、命にも影響しかねないような事件がよくある。
本来、私達の味方であるはずの政府、医師、マスメディアが信用できないのだ。
そこで貴方は大切だと思う人にアドバイスをする。
これはまぎれもなく愛から生まれた行動。
相手に『貢献』したいという思いから生まれている。
しかし、『うるさい』と一向に聞く耳を持たない人がいる。
誰しも変化が嫌い。習慣の奴隷なのだ。
厄介なのは、自分で調べる時間も意思もなく、
タダの情報であるテレビが、調べればすぐわかる嘘を垂れ流していることだ。
貴方は愛が深いので相手を放置できない。
命に係わることだからと、一生懸命『貢献』しようとする。
でも、貢献しようとすればするほど、結局、『うるさい』と言って相手は離れていく。
相手から言わせれば、『何もしないで黙っていること』が貢献なのだ。
『愛が深いのなら、黙っていてほしい』のだ。
~経験を通してしか学べない人がいる~
達観して、そう言ってる人がいた。
でも、それって『相手に何の関心も持っていない他人』と同じ行動でしょ。
行動がすべて。
気づいていても、何も言わなければ、変化は生まれない。
愛はそれを示さなければ、決して届かないのだ。
では、何が『真の貢献』なのだろう。
『相手の求めるがままに、黙っていること』が、愛?
でも、それって極論、人殺しとどう違うの?
「未必の故意」は、殺人罪で罰されることになります。
「殺すつもりではなかったが、
これをすれば死ぬかもしれない、死んでもいいと思っていた」
この場合、本当に死んでしまったら、犯罪となる。
悔しいね。涙が出るね。
最悪の事態になる前になんとかしてあげたいだけなのに。
憎まれても構わない。
感謝される必要もない。
馬鹿だとののしられることになんの痛痒も感じない。
本当に完全な利他の精神。自己犠牲の精神。
自分のことだけを考えて生きることが、いかにちっぽけなことか。
私達は今、『愛とは何か』を学んでいるのかもしれない。